何故、“和”ではなく“洋”な話作りを目指すのか

僕は滅多に邦画や日本の小説は読みません。(漫画やアニメはたまに見るけど 笑)

したがって、自然と自分の書く小説の作風も海外風に寄ってきます。 笑


自分が、何故、小説、映画、海外ドラマ、あまたあるカテゴリの和な作品に魅力を感じないのか。

“洋”に引かれてしまうのか。“洋”を目指してしまうのか。

それは自分でも正直、分かりません。 笑


日本人のくせに何言ってんだ。この西洋かぶれがとか言われるかも知れません。

その通りです。 笑

きっと前世が陽気なイタリア人だったのじゃないかしらん。とか勝手に想像しちゃったり。^^;

でも、思うに“和”にあって“洋”にないもの。“洋”にあって“和”にないものが、それぞれ確かにあったりするんですよね。


これは鑑賞する側からの心象でもあるのですが、例えば和には親近感がある。聞いたことのある地名に知っている文化。それに対し洋には、それがない。


例えばキリストが、独立記念日が云々解かれたところで、普通の日本人にはピンとこない。なので、逆に洋には、知らないが故のイマジネーションが働く訳です。


そう、洋とは僕にとって、ある種の憧れ、ファンタジーに似たものなんでしょう。きっと。

西洋文化や考え方、世界観は純粋な日本人の僕にとって映画や書物で得た知識しかないわけで馴染みもない。未知の部分が多い訳です。


その分、想像で補う部分が大多数を占めてます。


だからこそ、自分の描く話も壮大にしたくなるし、勝手気ままに自分の生み出した登場人物たちを動かすことができるのです。


少し話題は変わりますが、ちなみに映画などで洋画と邦画で大きく異なると感じるのは台詞回しですかね。

登場人物の性格や人物像、手法は訳者の方の解釈でそれぞれ大きく変わる訳ですが、何となくドラマひとつ取っても“洋”と“和”では独特のニュアンスや表現の違いがあることに気が付きます。


日本のドラマや映画、小説は、とても視聴者や読者を大切にします。

なので、ストーリーの流れを視聴者に丁寧に説明、生真面目に表現します。

一方、海外さんといえば、流れに着いてこれなきゃ構わないぜ、YOUが馬鹿なのさ、HAHAHAHA!ってな感じで無駄なやりとり抜きで話がドンドン進みます。 笑


確かに台詞回しには若干不親切な面は感じられるものの、その分、想像力をかき立てられる訳です。


例えば、


■和風

登場人物A「ひとつ気になることがあるんです」

登場人物B「気になること?」←前者で気になることだっつってんのに、わざわざ聞き返す。


■洋風

登場人物A「ひとつ気になることがあるんです」

登場人物B「おまえの女房が誰と寝てるか以外にか?」←面倒なやりとりを超えて、更に皮肉やジョークを交えて返す。


どうでしょう、あるある!!って思った方もいるのでは? 笑

極論ではあるのですが、上記の例をひとつとっても僕は断然後者の表現の方が好きなんですよね。^^;


僕には、この洋風なやりとりが、とても面白い訳です。 笑


要は次の展開を想像させない。この次はどんな台詞が返ってくるのだろうと潜在的に期待をさせる掛け合いが、“洋”ものには数多く見受けられるんです。

“和”の方はといえば、簡単に次の台詞を予想できてしまうことが多い印象を受けます。これって、とてもつまらないことだと思うんです。


偏見だ!思い込みだ!なんて、ご意見もあるでしょうが、あくまで個人的な持論なので異論は受け付けません 笑



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